発達障害ですが、結婚しています。
色々と有名なイケダハヤトさんのブログに、こんな記事がありました。
空気が読めないから恋愛ができないのか。というと、そんなことはありません。空気が読めなくても、人を好きになります。人を好きになれば恋愛ができるはずです。
たしかに、空気が読めないが故のすれ違いは沢山あるでしょうが、そこをどうやって埋めていくかという工夫を2人でしていけば良いのだと思います。
周りの人と同じようなやり方ではうまくいかない…というのは、仕事も恋愛も同じでしょう。目と目で会話して良いムードになって…みたいな事は、僕はありませんでした。
「そもそも言わなきゃ分からない。雰囲気では無理。」
「遠回しなことをいわれても分からない。はっきり言って。」
「断片では分からない。具体的に説明して。」
そんな要求をしていったので、あうんの呼吸で自然に動けるパートナーというわけにはいきませんでした(今でもそうです)。それでも結婚にこぎつけ、今では子供もいます。
発達障害と分かったのは結婚後しばらく経ってから、子供も生まれてからの事です。なので、あらかじめ発達障害と分かっていたら結婚できたのかといわれると、それは分かりませんけれどね。
この手の話をすると思い出すのが、アスペルガーを疑って初めて行った病院のこと。
「あんた結婚しているんでしょう? だったらアスペルガーとかではないでしょ。アスペルガーとかは結婚できないんだから。だから問題ないですよ。」
既にこのとき笹森理絵さんのケースなどを知っていたので、この医者の説明にイライラさせられて帰りました。こんな話をするだけでも医者は金を取れるんだなとあきれたことも思います。
今ググってみると、その病院はまだあります。発達障害以外では優秀なんでしょうかね。
集合写真は好きじゃない。
集合写真を撮ることが、大人になってからもたびたびあります。
職場の送別会とか、退職祝いとか、葬式とか。
その度に戸惑います。僕はどうしたら良いのかなって。
大体において、僕はそういう場では主役級ではありません。えらい人でもないので、映らなくても誰も困らない程度でしょう。
そう思って、以前はできるだけ最後に入るようにしていました。そうすると、僕が入ると「あー入りきらないので詰めてください」となってしまう。僕が入ってきたがために、みんなが少しずつ場所をずれて、またちょうど良い場所と姿勢を決め直さないとならない。みなさんごめんなさい…。
最近は、心を入れ替えてはじめのうちに入るようにしています。そうすると、両端から入る人に押されて押されて…いつの間にかほぼ中央で映ることが多くなりました。僕が中央に入る理由なんてないのに、主役の真後ろとかになっていたりして。そしてまた思うんです。みなさんごめんなさい…。
集合写真って、好きじゃありません。
冷蔵庫に入れないで済む。という点でお酒を選ぶ。
お酒には弱いので、毎日飲むわけではないですし、量を飲むこともありません。
あまり飲まないということは、買っても減らないということで、冷蔵庫にお酒を入れるといつまでも入りっぱなしで邪魔くさくて仕方がない。
そこで、冷蔵庫に入れないで済むお酒をちびちび飲むというスタイルになりました。
初めのうちは、杏露酒や梅酒。少し変わったモノも試してみたくてカンパリ。カンパリは苦みが美味しいですね。
そして、ダイエットを気にしないとならない体型であることを自覚して、甘みのないウイスキー、焼酎に落ち着きました。
いずれにしても、高いモノではなくリーズナブルなあたりで。今は、ニッカのクリアブラックと、黒霧島を置いてあります。
今年こそは体重を減らす方向で。
今週のお題「今年こそは」
今年こそはダイエット。と思うのですが、これがなかなか難しい。
カロリーの問題なので、体に入る分を減らすか、消費する分を減らすしかないのです。
体に入る分を減らすためには、食べなきゃ良いのです。でも、おなかが空くとイライラするし、空腹では眠りにつけないのでついつい何かを食べてしまいます。カロリー少なめと言うことは心がけているのですけれどね。
入る分を劇的に減らせないのであれば、消費するしかない!
と思ってジョギングに挑戦したこともありますが、喘息を持っているので外を走るとヒューヒューしてダメです。10分でメプチンが必要になります。死にます。
じゃあ、家の中でウォーキングだ! と、足踏み型健康器具をやっていると、床がギシギシいって階下の人に文句を言われるわけです。ダメだ~
とりあえず、部屋で階下に音がしない程度の運動をしているのですが、これで体重が減るかどうかはきわめて怪しい…。
色々なハードルがある中、どうやって体重を減らす方向に持って行くのか。今年はその方法の研究からスタートなのです。(理論研究だけ行い実践を伴わないという可能性もある)
プライドをどうコントロールするか。
障害のために一度仕事を離れて、そして再チャレンジをする人がいる。
そういう人が、「障害者向け」として割り当てられた仕事を納得しておこなってくれないケースがあるようだ。
以前にやっていた仕事の複雑さ、重要性、そして立場。
以前に自分がどうであったかというプライドが、今目の前にある簡単な仕事を確実にこなすということを妨げているらしい。
僕の知っている人でも、鬱でしばらく仕事から離れていたにもかかわらず、簡単な作業の仕事をやりたがらないという例がありました。本人曰く「そんな単純作業なんてやれない。僕はねぇ、仕事選ぶ側の人間だよ?」とのことでした。
プライドが全く要らないモノである。というつもりはないですが、基本的にはプライドは邪魔だなぁと思っています。一端苦境に陥ってしまった場合は特に、プライドを一度捨てて、目の前にあることをやるしかないと思います。
プライドを気にするなら、目の前にある仕事を、周りの人が驚くほどのクオリティや付加価値をつけてやって見せればよいのです。
「個性」に寄り添ってもらうために。
伊藤氏のツイートからもう1つ。
発達障害バブル?
重要なのは個性に寄り添える社会ですね。 https://t.co/FFOu24mZwr
— 伊藤隼也 (@itoshunya) 2016, 1月 9
リンク先は中井昭夫氏の文で、ベネッセの研究所(?)のサイトに掲載された記事のようです。
現在は診断基準を満たしてしまうような「生き辛さ」「生活困難」を、子育て、保育・教育、医療・療育、 福祉などによるリエゾン支援で、いわゆる「発達障害」 とよばれる特性のある方を理解し支援することで、日常生活などにおける困難や支障がなくなり、その優れた特性を活かして社会参加が可能になれば、かって「発達障害」と診断された方も、もはや「障害」ではなく 「支援の必要な強い脳の個性」となるのである。
僕が大事だなと思ったのはこの部分。
この支援をどうやって受けるか…だと思うのです。障害の診断を受ければ、そのことを理由に支援を受けやすくなるでしょう。でも、障害の診断無しに「支援してくださいよ」と言っても、どこでどうやって支援を受けられるのでしょうか。
その仕組みができることが理想ですが、現実そうなっていないと感じます。
本田氏の本は「自閉症スペクトラム」と「自閉症スペクトラム障害」を使い分けていて面白いです。
本田氏の区分で言うと、「自閉症スペクトラム」の僕は、仕事をするようになったことで「自閉症スペクトラム障害」を引き起こし、その後の異動と異動先の対応によって「障害」が外れたことになるのかなと思います。
発達障害というラベルがなくても良い社会が理想ではある。…けれど。
話題になっているツイートがある。
「発達障がい」というワードは大嫌いだ。何が正常で何が異常なのか?何でも白黒付けたがる連中には格好の用語。子どもの成長や学びの過程は本当に一人一人違う。限られた時間の中で結論を出そうとする教育は自立を待つことのゆとりを忘れて成果だけを求める。本当に必要なのは愛のある支援に違いない。
— 伊藤隼也 (@itoshunya) 2016, 1月 7
発達障害という言葉が好きな人はあまり居ないだろう。僕は、好きで「私は発達障害でござい♪」と言って回る人を見たことが無い。
子どもの成長や学びの過程が違うのもその通り。
でも、学校(文科省?)は6年間で小学校を終えろと言うし、その後の3年間で中学校卒業程度の学力がつくはずだよねと言う。実際それがすべての子どもたちに可能なのかというと、発達障害の有無は別としても無理だろう。
無理だけれど、ベルトコンベアに載せられたように時間は過ぎ学年は上がっていく。基本的に学校は「平等」なので、その子を特別扱いするためには根拠も居るだろう。先生方の人数は決まった数だけしか割り当てられないので、追加の人員がほしければより明確な根拠が求められるはずだ。
そうなったときに、「明確な根拠」として「発達障害」なり何なりのワードが必要になる。伊藤氏が描く理想は悪くないと思うが、実際に苦労をしている人たちにとって今現実的な対処は何かということが見えてないように思える。
もちろん、「発達障害」の診断を受けることは、学校教育での特別な支援についてだけ意味があるわけではない。
自分の特性を知ることで、どのようなことに心がけた言動を行っていけば良いか。また、どのような選択をしていくと良いか。ということは、大人になってからの方が重要になると僕は考えている。