発達障害というラベルがなくても良い社会が理想ではある。…けれど。
話題になっているツイートがある。
「発達障がい」というワードは大嫌いだ。何が正常で何が異常なのか?何でも白黒付けたがる連中には格好の用語。子どもの成長や学びの過程は本当に一人一人違う。限られた時間の中で結論を出そうとする教育は自立を待つことのゆとりを忘れて成果だけを求める。本当に必要なのは愛のある支援に違いない。
— 伊藤隼也 (@itoshunya) 2016, 1月 7
発達障害という言葉が好きな人はあまり居ないだろう。僕は、好きで「私は発達障害でござい♪」と言って回る人を見たことが無い。
子どもの成長や学びの過程が違うのもその通り。
でも、学校(文科省?)は6年間で小学校を終えろと言うし、その後の3年間で中学校卒業程度の学力がつくはずだよねと言う。実際それがすべての子どもたちに可能なのかというと、発達障害の有無は別としても無理だろう。
無理だけれど、ベルトコンベアに載せられたように時間は過ぎ学年は上がっていく。基本的に学校は「平等」なので、その子を特別扱いするためには根拠も居るだろう。先生方の人数は決まった数だけしか割り当てられないので、追加の人員がほしければより明確な根拠が求められるはずだ。
そうなったときに、「明確な根拠」として「発達障害」なり何なりのワードが必要になる。伊藤氏が描く理想は悪くないと思うが、実際に苦労をしている人たちにとって今現実的な対処は何かということが見えてないように思える。
もちろん、「発達障害」の診断を受けることは、学校教育での特別な支援についてだけ意味があるわけではない。
自分の特性を知ることで、どのようなことに心がけた言動を行っていけば良いか。また、どのような選択をしていくと良いか。ということは、大人になってからの方が重要になると僕は考えている。